伊能忠敬が家業を後継者に任せ、日本列島の測量を開始したのが50歳。当時としてはもはや老人であるが、偶然私も50歳。だからどうしたと言われるが、こじ付た。
日本地図の作成で知られる伊能忠敬だが、当初は地図作成が目的ではなかったようである。私は戦後の生まれなので「修身」の授業は受けてはいないが、戦前までは伊能忠敬が登場していたようである。生い立ちから千葉県佐原村での功績、そしてお国のために何かをしようと50歳で家業を捨てて日本地図作成、百姓が帯刀を許されるに至るまでを立身出世の鏡として取り上げていたようだ。一方では趣味が講じて天文学にのめり込み、マスオさん生活に嫌気がさし、年がいもなく50歳で江戸の若き天文学者高橋至時に長年かけてためた「へそくり」を持って転がり込んだ。いわば「不良オヤジ」。(こんな説はないが、この方が人間として好きなのでこう信じる)18も歳下の幕府天文方の師匠、至時と意気投合した彼はますます天文のロマンにはまり込み、緯度1度の正確な直線距離を測ることによって丸い地球の大きさを知りたくなった。(それまで正確な文献がなかった。)そのために関東から比較的真直ぐな奥州街道を青森まで測量するために当時幕府が欲しがっていた正確な蝦夷地の地図を幕府公認の「御用」としてできるよう提案した。当時幕府はたびたび訪れるロシア船に脅威を感じていた。蝦夷地の正確な地図作成が急務だった。ジャストタイミングである。「幕府御用」となれば国境を難無く通過できる、そして経費を請求できる。かくして1800年、いまからほぼ200年前、50歳のオヤジがとてつもない冒険の旅に出たのである。そして初めて明らかになった蝦夷地の地図が余りにも良い出来栄だったので幕府より日本全土の測量依頼へと繋がったのである。不良オヤジの夢が実益を伴った。

また、伊能忠敬の不良説を裏付けるような説もある。類は友を呼ぶというが、とんでもない不良「葛飾北斎」と交流が合ったというのである。「あほくさい」などと寒いオヤジギャグな自分の名前をいくつも持った北斎はいい作品も残しているが、妙なものを沢山描いている、ちょっと「薬」かなんかでラリっていたんではないかとさえ想像してしまう。交流があったか定かではないが、住居も墓も近くにある。北斎の作品に当時としてはめずらしい天球儀が描いてあったりもする。葛飾北斎は有名なごろつきで忠敬に娘「お栄」をタンポに金(御用金なのに)を借りていて、忠敬がその「妾のお栄」に地図作成を手伝わせたという。確かに伊能地図はブルーのグラデーションがきれいだ。もっともらしい話だ。その忠敬の死後起きたシーボルト事件で、シーボルトが持ち帰ったのは伊能大地図と「北斎漫画」であると。それらが印象派のゴッホ、セザンヌ、モネなどに影響を与えたというのである。興味ある話ではある。