蝉の幼虫を食べた
蝉の幼虫は多分呼び方が別かも知れない。というのは昆虫の場合は、幼虫は芋虫状の物を言い、サナギから成虫になるからだ。ここで言う蝉の幼虫は、夏になるとあの抜け殻をよく見るあの姿のものだ。
子供の頃、夏休みの夕方「おい蝉の幼虫とりにいくど」とすぐ近くに住む一つ年下のカズシゲに声をかける。周りは林檎園だらけで、それぞれの園の境界は石が低く積んであるだけでこどもは関係なくどこの林檎園にも素通り出来た。もちろん、近隣で自分達を知らない人などいるはずもない山奥。畑に入ろうが、だれも何も言わない。
夏の夕暮れはあっという間にやってくる。急いでビニール袋(ポリエチレンの袋)を持って家を飛び出す。当時ビニール袋は貴重だった。何回も使い回しをした。川にいって魚を捕った時や、山に行ってクリを拾った時等、今のように袋だけで買ってくることはなかったので、何かを買った時等の包装用の物だ。そのビニール袋を半ズボンのベルトとズボンの間に挟んで行く。とにかくせわしなく林檎園のなかを走って行く。それというのは幼虫は夕方から林檎の樹の根元の土の中(7年目かかる)から這い出し樹に登りはじめ、朝までに殻を破って成虫になる。のんびりしていると樹の上の方までいってしまって子供では届かなくなってしまう。それと早とちりの蝉等は背中が割れはじめてしまうからだ。さらに他の子供に先に捕られてしまうのもまずい。薄暗い林檎園を我先にと走り、手で捕る、そして腰のビニール袋に入れる。「おーい、どこだ」「こっちだ」「あっちはもうとったか」等と大声でお互いの位置を確認しながらさらに走る。夕暮れとはいえ真夏だ。ランニングシャツが汗だくになる。ビニール袋の中はすぐに一杯になる。「じゃあ、また明日ナ」といってそれぞれの家へ入る。
家に着くとちょうど両親は野良仕事から帰ってきている頃だ。農具の手入れをして、麦わら帽子とてぬぐいのほっかぶりをとって腰を延ばし、顔を洗っている。急いで台所へ行き、フライパンに油をひいて(プロパンガス)火にかけ。ビニール袋の蝉の幼虫をそのままどさっと入れる。蝉の幼虫は「何ごとか」と、這い上がって逃げようとする。逃げないようにアルミの鍋のふたで押さえる。しばらくするとザワザワした蝉の幼虫の動きが止まり、パチパチと音がして香ばしい香がして来る。ふたをあけると蝉の幼虫は捕った時よりのびてちょっと大きくなっている。殻ははずれかけ、油にまみれて光っている。そのままお皿に盛り付け、皮のまま醤油をかけて食べる。この味は絶品だ。40年たった今でもこの文章を書きながら、口の中にだ液が充満してしまう。母が夕飯の支度をする間、父が晩酌を始める、その時に蝉の幼虫はいい肴になる。「今日はずいぶん捕ったな」と誉められながら。自分も兄もばりばり食べる。
私はこれを30才ぐらいの時に渋谷のスナックで亀田さんに話をしたら、信じてもらえなかった。周りの客も疑わしい目で見ていた。それではということでその夏に長野の実家へ帰った時に捕ってくることになった。当時はまだ高速道路が出来ていず、片道7〜8時間かけて往復した。子供の頃とは勝手が違いそう沢山捕ることは出来なかったが、それでも20匹ぐらいはいただろうか。それを冷凍庫に入れ、冷凍し、クーラーボックスに入れ東京渋谷のスナックまで持ち込んだ。
スナックのママに断って厨房に入り、亀田さん達に食べさせた。最初は躊躇していたが、食べると「美味しい」と言っていた。「ねえ、美味しいでしょう。」だれかが「車海老ですよ、これは」「そう陸の車海老、いいねえ」「商品化しますか」「陸の車海老、ミンミンカイホーなんてどう?」「いいねえ」。
「でもどうするんだろう、林檎園誰が走り回るの?」「養殖するにしても7年かかるしね」「ウーム」。酔っ払いのたわごとで終わってしまった。
長野の山奥で育った私は当然、車海老なんて食べたことはなかった。大人になって七輪でまだ生きている車海老を焼いて食べるのが高級な料理と知った時、蝉だって・・・と思ったことがあった。味については車海老と同じとまでは言わないが確かに似ている。これを読んだ人は「まさかあ」そして「ゲテモノ」と思う人がほとんどであると思う。しかし客観的に考えて欲しい。食べ物の姿としては海老だって鮹だって、ましてやナマコに至ってはグロテスクだ。「みてくれで判断してはならない」
産地で味も違うかも知れない、信州産のアブラゼミ・ミンミンゼミが大衆料金、クマゼミ・ヒグラシが高級。アメリカ産の「13年ゼミ」は超高級。てな具合・・・かもしれない。
東京に来て「信州人は虫を食べる」というのは結構言われる。それは南信(長野は北信、東信、中心、南信の四つになっている)の蜂の子が良く知られているためだ。瓶詰めになっていたりする。でもそれだけではない。イナゴも食べる。そしてなんといってもわたしは蚕のさなぎをあげたい。市ヶ谷の釣り堀で鯉の餌になっているあれだ。これは私が子供だった頃、養蚕がまだ盛んだった長野では桑を食べさせて作った蚕の繭玉を業者が各農家に取りに来る、そして岡谷などの生糸工場で繭から生糸をとる。とった後、当然さなぎだけが残る。いわゆる産業廃棄物となる、しかしそれを乾燥させ今度は食料品として別の業者が売りに来る。見事なリサイクルだ。それをしょうゆや砂糖で煮しめる。冬、野沢菜とさなぎはお茶の時の「おちゃうけ」として定番であった。もちろん御飯にのせて食べても美味しい。私は御飯の上にウナギの蒲焼きのようにいっぱいそれを敷き詰めた「カイコ弁当」を持って来た友人の弁当を見たこともある。