私の妻の父親が生前、しみじみと言った。「山田君、岩木山はいいよ。たいした山だ。津軽富士と言われるだけの事はある。一度行って見てきなさいよ。」義父は秋田の農家の次男で生まれ、結婚したのち青森に居を構えた。私の妻は青森で生まれ、高校卒業と同時に上京。その後両親は私達が結婚する頃には長男がいる広島県へ引っ越した。私は妻の実家として行くのは広島県となり、妻が生まれ育った青森には行ったことがなかった。さすがに広島も遠く、そうたびたび行くことはなかったが、義父は行った時は必ずあまり飲めない酒を呑んで「岩木山」を語った。故郷の山を自慢した。私も信州北部の山間の村で生まれ育ったのでふるさとの山は懐かしい。そしてなぜか誇らしく思う。山がほとんど見えない都会暮しをはじめた頃は何か物足りなさを感じた。毎日見ていた山がそこにないからだ。これは山間で生まれ育った人間でなくてはなかなか理解できないと思う。実際私の妻は青森でも海よりの市街地で育ったのでそのような気持ちはないらしい。津軽民謡や演歌などで良く歌われることからも岩木山は津軽地方の象徴としてまた、信仰の対象で、さらにおらが身近な山であることは間違いない。岩木山は何処から見るのがいいのかということについては本人から詳しくは聞くことはなかった。いつか一緒に岩木山を見てみたいものだと思っていた。結局実現しないまま亡くなってしまった。秋田なのか青森の訛りなのか独特のイントネーションと発音で「たいした山だ」「たいした山だ」これだけが耳に残って悔やまれてならない。

岩木山に興味を持つようになって、幾たびかテレビの番組や写真で見た。なるほど綺麗な稜線の山だ。水田や林檎園の平野からそのまま立ち上がっている。こういう山はなかなかない。山と言っても山脈などの様に連なっていてその頂き部分だけ名前がついている山もある。それほど有名ではないが、おらが山の長野県の高井富士、「高社山」別名「たかやしろ」も自分の生まれたあたりを下がった田んぼから見ると、そういった山だ。岩木山を是非この目で確かめてきたいと言う思いが膨らんできていた。

「おらが山」という感情は、いわゆる有名な立派な山でなくてもいい。山はたまに行って眺めたり登ったり自然を満喫するのにいいけれど、あらゆる面で不便だ。だけど山の存在は大きい。
山間で育った私がこの「おらが山」ということについて「そうなんだよ」と共感した映画がある。
私の好きな映画の一つだ。たぶん6-7年ぐらい前の映画だと思う。ヒューグラントが主演していた「ウェールズの山」(邦題)である。たぶん100年前ぐらいの設定。ウェールズの片田舎の村に国が地図を作成するために測量士を派遣した。その村には昔から村びとが親しんできた「山」があった。ところが、測量すると一定の高さに満たないものは地図上「丘」と記録されてしまうことがわかった。村びとにとっては自分達が山と思って親しんできたのに「名もなき丘」にされては大変だと集会を開いて測量士に「山」として記録するよう説得する。しかし拒否され、あの手この手で測量士を妨害し、そのすきに定められた高さを確保するために村人総出で山に土を運んでいくことにする。雨が降って流れてしまったり、測量士が妨害を押し退けて測量を強行しようとしたりのすったもんだがある。最後には村びとの気持ちを理解した測量士も一緒に土を運ぶ。と言うようなストーリー。それ以来毎年その山には土を持って登るというイベントが定着する。私はこの映画を見て笑い、泣いた。「おらが山」を想う村びとの気持ち、これは万国共通だと思う。そして奥信濃の故郷にある「おらが山」を自分も持っていることがとても嬉しく思い、「おらが山」がもっと好きになった。(ちなみに長野県北部では「おらほの山」)