渥美半島の伊良湖崎「恋路が浜」にとう留していた若き民俗学者(当時23才)で「遠野物語」で有名な柳田国男が東京に帰り島崎藤村に「浜で、やしの実を拾った体験」を話したことがあの有名な「椰子の実」という新体詩になったといわれている。そしてさらにその後、柳田国男により日本人は黒潮の流れにそってやってきたという日本人ルーツの定説になったとも言われている「海上の道」を出版するきっかけになった。
それにしても、当時の学生がこのように諸国を放浪している話は随所に出て来るが、金銭的に余裕があるはずはないと思われるのだがなにか優雅である。
私は柳田国男の「遠野物語」をかなり昔に読んだので記憶が定かではないが、たびたび登場する「大男」の伝説。私も想像してみた。遠野から奥羽山脈を超え、日本海側の秋田の海岸に出て夜、松林の陰当たりから垣間見た光景。
「大男」という伝承はもしかしたら寒いので、たき火を囲みウォッカをしこたま呑んだロシア人だったのではないかと思う。伊能忠敬の測量にも繋がる「ロシア人渡来説」は事実としてある。大きな身体、白い肌がまっかに染まり、金髪、意味不明の言葉を大声で話し、はしゃぎまわっていたとしたら・・・。当時平均身長が150センチ程度だった日本人にとっては「赤鬼」に見えてもおかしくはない。さらにそれより北上した秋田の「なまはげ」も、もしかしたらもとはロシア人の人さらい?。現在の「拉致事件」のような。
島崎藤村と言えば「破戒」の舞台になった長野県の飯山にある、真宗寺(小説では蓮華寺)に執筆のために長期滞在していた。その真宗寺には猪瀬直樹著の「ふるさとを創った男」で登場する、「まだあげそめし、前髪の林檎のもとに見えしとき・・・」という藤村の詩のモデルになったのではないかと言われる8歳の少女がいた。寺から千曲川を数キロさかのぼったところの豊田村出身の国語教科書編纂の国文学者、高野辰之がその寺に12歳で下宿し、後にその女性と結婚する。藤村はその二人を見たのではないかと推測されている。

高野辰之は、文部省の依頼で東京音楽学校(現芸大)で教授になり、岡野貞一とコンビ。「ふるさと」「春の小川」「もみじ」「朧月夜」など数多くの唱歌を作詞、また日本の音楽史、古典芸能や歌舞伎に至るまで体系的にまとめあげた本を数多く出版。帝大で国文学博士号を取得。辰之は貧しい農家の生まれだった。特に将来に目鼻が立っているわけでもない青年が、当時としては由緒ある寺の娘を嫁ににもらうにはそれなりの覚悟が必要だった。「将来人力車で山門を通って来れる男になるなら許します」といわれ、約束をして着の身着のまま上京した。30年の歳月を費やしたが「ふるさと」の歌詞の中にある「こころざしを果たして、いつの日にか帰らん」のとおり、「末は博士か大臣か」と言われた時代に実際、飯山の駅で地元の大歓迎を受けた。駅から寺まで凱旋し、「高野博士」は人力車で真宗寺の山門をくぐった。その高野辰之の生家から直線でわずか約5キロ、貧農の生まれの9歳年下の男が島村抱月をたより上京。書生をするかたわら、勉学に勤しみ東京音楽学校のピアノ科に進学する。後に「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「てるてるぼうず」「船頭小唄」「砂山」「シャボン玉とんだ」や「東京行進曲」「銀座の柳」「東京音頭」に至までこれも数多くの名曲を残す作曲家、中山晋平である。私はその両者のほぼ中間の村で生まれた。高野辰之は、豊田村。中山晋平は中野市。今ではそれぞれの地元で記念館の運営やイベントがめじろ押しだが、意外にもほぼ同じ時代の両者を繋ぐ「なにか」は全く話に出てこない。当時としては、方や博士、かたや大衆の流行歌謡作家(グランドピアノと大正琴のような)という隔たりは今よりも間違いなく広い。しかしどちらも「童謡?」という接点もある。きしくも市町村合併計画が盛んな昨今、この両自治体も合併の計画が進んでいる。私としては同郷で、しかもとなり村同士の二人。高野辰之作詞、中山晋平作曲のゴールデンコンビによる「まぼろしの曲」があったら・・・と夢が膨らんできた。二人の接点を追いかけたい。乞う御期待である。-2004

その後の調べで一曲だけあることがわかった。
「飯山小唄」