とにかく道路が台風の影響で寸断されてしまい、松山に入るのも怪しくなってきた。松山と言えば漱石の「ぼっちゃん」。そして正岡子規。この地名は日本文壇史にたびたび登場する。司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくる秋山兄弟の真之と正岡子規がこの辺りを闊歩していたのかと想像した。そういえば、この「坂の上」はどこの坂のことを言っているんだろうか?と疑問に思いちょっと調べてみた。なんと驚いたことにそれは、私の事務所がある市ヶ谷左内坂ではないかということが司馬遼太郎の足跡をたどった本に出ていた。私の事務所の場所は左内坂をのぼりきった先である。現在の防衛庁はもともと尾張の屋敷だったが、維新後すぐ日本軍が陸軍士官学校を作った。左内坂の頂点あたりにある裏門が(当事務所の前に現在もある)秋山好古が願書を提出に来た通用門だ。好古は弟真之が貧しさのために奉公に出させるのを拒み、弟に学問させてくれと言い、自分が豆腐ほどの札束を稼いでくるからと両親に約束して旅立つ。教員をしていたが給料がいいという理由で軍人になることを決意。その後日露戦争で兄好古は騎馬隊を指揮しコサック軍団と戦い、弟真之は海軍でバルチック艦隊と戦う。ともに日本の勝利に大きく貢献したとされる。青雲の志?をもってのぼった長く急な坂、それが左内坂であり、その坂の頂点の先に見えたのが「坂の上の雲」。暗雲なのか、青雲なのか?私は毎日通勤で上り下りしている。
松山の駅で「東横イン」の大看板を見つけた。「東横イン」は女性スタッフをメインにやっていて、女性ならではの細かな気配りのサービスをモットーにしているとテレビでやっているのを見た。7時を廻っていたが携帯から電話すると空いていた。フロントのある狭いロビーにカレーの臭いが充満している。みるとロビーは食堂も兼ねているらしくサラリーマンらしい数人がカレーライスを食べていた。まあ料金が料金だし別にいい。ひと風呂浴びてから、外に出る松山城からそう遠くはないがそれほど繁華街というほどでもない。ホテルのすぐ裏に「いわし料理」と書いてある看板の小料理屋があったので入った。とにかく腹が減っていた。どうぞと靴を玄関で脱いで、入れてもらった店はカウンターが鍵型になってるだけの小さな店。普通の家の居間を改造したような妙な感じ。掘りごたつのような椅子の無い造りになって、8人すわれるかどうか位だ。右側に50代後半位の中小企業の社長風。左側に私と同じ位の男と30代半ばの女性のカップル。男の方が同僚のグチを聞かされている話の様子からどうも上司と部下。左の奥まった所にもう一人。初老の近所のご隠居さん風。「いわしはどうやって食べるんですか?」と聞くと「何でも言ってくださいよ。生でも焼きでもフライでも」「それじゃあ、たたきとフライを」。
40代後半位の女将らしい人と、玄関に迎えに出た50代の女性と、多分20代前半の女の子の三人とも狭いカウンターの中にいて皆着物を来ている。三人とも私が珍しいらしくずっと見ている。常連ばかりの店らしい。「ビールを一本飲めないのでグラスでもらえますか?」「あっお酒だめですか?」「いや、芋焼酎飲みたいんだけどあります?」「ああっビールお腹いっぱいになっちゃう人ね。」「そうそう」「ありますよ」と言って一升瓶を出してみせた。出てきたものは家庭料理そのものだった。レタスをしいてポテトサラダその横に小振りのイワシのフライ。揚げ出し豆腐やイワシのつみれ汁なども食べた。美味しかった。焼酎をロックで2杯位呑み、酔いがまわってきた頃、女将が゜「どちらから?」と聞いてきた。「昨日東京を車で出て明石で一泊して、今日讃岐うどん喰ってここまで来ました」というとカウンター全員が「ホゥ」とか「へぇー」とか言うのが聞こえた。女将が「車で?仕事じゃないんですね」「そうなんです。日本一周やってまして、今回は四国一周なんです。」また「ええーっ」「それはそれは」とか聞こえて、それからカウンターの内も外もあっちこっち話が入り乱れて「どことどこ行った?」とか「私はここ行った」とかの話で盛り上がった。「うどん」は「がもう」で正解。とか道後温泉は汚いから入らなくていいとか。気がつくと私の隣にカウンターの中にいた従業員の和服の女の子が座っている酌をする訳でもなく呑む訳でもなく、黙ってちょこんと座っている。「あっなんか呑みますか?」と聞いても何も言わない。「ああその子中国人、ほとんど通じないから。おとといから手伝ってるの」と笑いながら女将。別に笑う話でもないが一同大笑い(酔っぱらいはそんなもんだ)してその子も一緒に笑った。話の内容もわからず一緒に笑っていたんだ。私もだんだん調子に乗ってカウンターのはじにある「種田山頭火」の立派なハードカバーの本を見つけ「さすが松山ですね、山頭火の本がある。松山で死んだんですよね」と浅い知識をひけらかした。すると隣のカップルの女性が「ええーっ知らなかった」すると今度はいつの間にか私の右側の中小企業の社長風と入れ替わり二人連れの男がいた。「そうだよ、山頭火はここ松山で死んだの。ねぇ先生」と連れの男に言った。二人は教員と退職した校長であると後でわかった。「あいつはとんでもないやつでね、乞食(こつじき)ってまあ要は托鉢しながらっていってもほんと乞食のような・・・・」とか「俳諧がどうのこうのって俳句かあれは」「死んだときも借金だらけだったらしいですよ」とかひとしきり言った後。
「この本ね、あの先生がお書きになったの」と女将が奥まったところにいるご隠居さんを指差した。一同「げっ」・・・・。「早く言ってよみんなでさんざん言ってから言うもんなあ。」と私が言うと一同大笑い。著者も「いやいや」と手を振りながら大笑い。
左にいたカップルの男、上司が「明日はどこまで?」と聞いた。「高知です。」と言うと
「じゃやっぱ鰹食べないと」「そうですね鰹食べないとね」「鰹食べるならクロソンというお店ありますから、行ってください。ちなみに電話番号は・・・」と何も見ずにメモを書き始めた。「わかりました。絶対行きます」となぜか全みんなと握手して席を立ったのがもう12時を廻っていた。焼酎のロックを何杯飲んだか忘れたが、かなり酔っていたのは事実。支払いも安かった・・・・と思う。